正法寺とは

当寺は、京都市西京区大原野にある真言宗 東寺派の寺で、法寿山と号します。

奈良唐招提寺を創建した鑑真和上の高弟、智威大徳が隠世したのが始まりで、天平勝宝年間の創建です。

後に弘仁年間の時、弘法大師巡錫され四十二歳の厄除けのため、聖観音を彫刻されました。

長岡京の氏神「大原野神社」の向いに当寺はあり、応仁の戦火て焼失しましたが、元和元年(大阪城落城の年)、彗雲・長圓の両律師により再興され、西山のお大師さまとして古くから親しまれてきました。

近年の開発と都市化、そして合理化至上の世相にあって豊かな自然と静ひつさのなかにある当寺は、遠く平安朝期の面影を今に残す古刹として人々の心のやすらぎの場となっています。

正法寺ご詠歌
西山に散るもみじ葉も咲く花も
さながら法のすがたなりけり

沿革

天平勝宝5年(753)奈良唐招提寺に住持された鑑真和上が中国の唐より渡来されました。その鑑真和上とともに渡来された高弟、智威大徳が隠棲された地として、正法寺は天平勝宝6年(754)に開山され、当時は春日禅房と称されていました。
その後、伝教大師最澄が長岡京の守護寺院である「大原寺」を建立した際、春日禅房も大原寺の塔頭寺院の一つとして組み入れられました。

弘仁年間(810~824)には弘法大師空海が巡錫して、聖観世音菩薩立像を彫刻されたと伝えられており、現在も本堂に安置されています。

応仁の乱の戦火で焼失しましたが、元和元年(1615)に、戒律復興運動の祖・明忍律師の法友・法弟である彗雲律師、長圓律師により正法寺として再興され、元禄年間(1680~1703)には、徳川綱吉の母、桂昌院の帰依を受けて、徳川家代々の祈願所となりました。また、庶民には西山のお大師さんとして信仰されました。

通称を「石の寺」というのは、境内全体で600トンに及ぶ巨岩が全国各地から集められていることに由来します。幾つも有る庭園のうちで著名なのは「宝生苑」で、彼方に東山連峰を望む借景式山水庭園ですが、お堂の畳に座って眺めると、庭石の形が何となく鳥やペンギン、兎など、15種類もの動物の形に似ているため、「鳥獣の石庭」と呼ばれています。

住職のおはなし

01

老僧の接木

正法寺は、鑑真和上の高弟、智威徳が開いたといわれる真言宗の古刹です。大原野の歴史は京都盆地では一番古く、石器時代に既に人間が住んだ形跡があります。長岡京遷都から歴史の表舞台へ。

西山と向日丘陵の間の盆地という地形が鷹狩りに最適な場所とされ、桓武天皇をはじめ多くの貴族が大原野で鷹狩りを楽しんだといいます。かぐや姫伝説もあり、平家の面影が今も残る自然の中、ハイキングコースとして人気です。豊かな自然の中にいると、人間だけが生きているんじゃない、木も動物も皆互いに助け合って生きている、ということが実感できます。

大原野は心の癒しの場所として、市内とは一味違った観光名所になればいいですね。

「老僧の接木」という言葉があります。渋柿は接木をすると甘い実がなりますが、老僧は甘い実を食ペることができません。次の世代の人のために行なうのです。

この言葉の意味を、ゆっくりと大原野の自然の中で考えてみて下さい。

02

山川草木悉皆成仏

白砂に浮かぶ庭園と、はるかにかすむ京洛東山の山なみを眺めながら、
千万年の風雪を越え歴史を見つめてきた石の数々と対話するとき、

大自然の弛みない営みの中に育まれ生かされてきた
もう一人の自分に出会う…。

山川草木すべてに仏性あり

流れる雲、鳥のさえずり、木々のそよぎ…
それらがまたそのままにして如来の説法である。

と密教は教えます。

03

命 いのち…

遠い遠い昔から連綿と受け継がれてきた「いのち」。

すべての生き物はこのいのちをを未来へつなごうと、今を精一杯生きています。

またそのいのちは、網の目のようにつながりつつ、
互いに助け合い、生かし合いながら今日に至っています。

決して人間だけのいのちではありません。
大勢のいきもののなかのただの一員に過ぎない人間。

今一度自他のいのちの重みをかみしめ、省みるよう、また生かされている
いのちのありがたさに気づくように、と仏さまは語りかけています。

正法寺住職

末資弘齋謹誌(正法寺住職 吉川弘齋)

お問い合わせ

お墓のことやご供養についてのお問い合わせ・資料請求は、
お電話またはメールフォームよりご連絡ください。

ページのトップへ