秘義 春日稲荷正法寺 縁起(現代語訳)から抜粋

末資弘哉謹誌(現・正法寺住職 吉川弘哉 著)


鑑真大和上(がんじんだいわじょう)と高弟、智威(ちい)
 はるか遠いむかし、天平勝宝という年号の時代(749〜756)の六年(754)に、唐の名僧鑑真大和上が日本にお越しになった。
門下の高僧六十余名を引き連れ、荒海を乗り越え、実に十二年がかりの渡来であった。
そして、日本の律宗の宗祖となられたのである。
そのお供に高弟の一人である智威という高僧がおられた。このお方は、人間離れした徳のあるお方で、早くから都会の俗塵を避け、当地の山に隠棲しておられた。
 そしてここを春日禅坊と名づけたが、それがここにある春日明神祠の前身である。



智威(ちい)と空海(くうかい)、最澄(さいちょう)
 智威は、金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)の真言秘密法を日課と行じ、かたや天台の修禅を怠ることがなかった。
 伝教大師最澄は、当初この師に付き 止観(瞑想)にひたすら専念しておられた。そしてついに、勅詔(ちょくしょう)を仰いで、延暦十年(七九一)、この風光明媚の地に大原寺を建立されたのである。これはひとえに、智威の仏道に於ける威光を世に示さんがためであった。
 弘法大師空海阿闍梨もまた、この大先輩を崇拝しておられた。弘仁二年(811)に乙訓寺の寺務長に任命されるや、毎日のようにここを訪れ、交流を温め、法談をなされたのであった。



老翁(ろうおう)と自狐(びゃっこ)
 智威はすでに九十歳を越えようとしていたが、お顔は若々しくつやがあった。けれども通常は文殊菩薩の三昧境に入り、扉は閉ぎしたままで禅坊から出ることはなかった。ただひとり、老翁がそばにお仕えしていて、身のまわりや食事の世話などをしていた。その老翁にはまた、影のごとく従う白狐がいた。
白狐は智威の絵姿を抱いて大空をかけめぐり、天の恵みをもたらしたという。また、縁のある人には布施をさせ、その徳を積ませた。あるいはまた、道交の人たちの手紙を運んだりしたのであった。


智威の入定(にゅうじょう)と狐王社(こおうしゃ)
 当時の人は、智威を文殊さまの化身として崇め拝んでいた。また、老翁を神さまの使いとして畏れ敬っていた。身分の高い名士たちはこぞって智威に拝眉を願ったが、禅坊は閑ざされたままで、その尊いお姿が現われることは
なかった。
智威はすでに九十三歳を越え、いよいよ遷化の時がきたことを自覚し、禅坊の奥にある石窟で、坐禅をしながら入定されたのであった。
  その時以来、あの老翁もふっと姿をかくし、ただ白狐だけがその石窟の前にひかえていた。そして、人々がお詣りをすると、なんとも言えない良い香りがいつもただようのであった。当時の人々は、これはめでたいしるしであると吹聴し、境内に小さい祠を建て、「狐王社」 と名づけて崇め祭っていた。



伏見稲荷明神と春日禅房(かすがぜんぼう)
 弘法大師は東寺を勅賜されてからそこに住まわれることになった。すると、例の神人の老翁がどこからともなく、稲を荷って現れ、大師の衆生済度のみ心に祈り奉仕する誓いを立てた。以来、永い間寺を護り、寺の摩裡で奉仕していた。
  共に、高潔な士であるから、このような状態が続いても不思議がる人もいなかった。
やがて大師がこの老翁を菩薩としておむかえし、伏見稲荷明神として祀られたのは、世間に周知の縁起である。
すなわち、この稲荷神という称号は、元をただせば、高僧智威人定の春日禅坊、すなわち今の正法寺にたどりつくのである。



戒律復興の祖、明忍律師(みょうにんりっし)とその法友
 いわゆる 「狐王社」は庶民の祈願するところとなり、その願いが叶えられないことはなかった。
しかしながら、霊地も年を経て苔に埋もれ、大原寺もまた戦乱によってあとかたもなく消滅し、禅坊を訪れる人々も日に日に疎くなった。
ただ、お寺の周辺の里びとが話すあのめでたい話だけが語り継がれていった。
 慶長七年(1601)に槙尾(まきのお)の明忍律師(1576〜1610)は、戒律が捨てられつつある現状を嘆いて、友尊律師及び慧雲律師の両匠と共に志を立て、自ら誓いを立てて高山寺において受戒し、律宗の幢を再び興したのであった。これによって、天下三僧坊の根元と言われるようになった。



正法寺の由来
  なかでも慧雲蓼海律師(えうんりょうかりっし)は、さいわいにも法華宗門とも交りがあり、甘えとは無縁の智慧者で、止観(瞑想)に最も精しく、人々は皆な観行(瞑想の行)は、すなわち慧雲であると言っていた。
  師は常日頃から、偽の仏陀、すなわち仏の衣を借りて富貴をむさぼる者が世間には多いことを見ていたが、あえてそれと張り合うことは望まず、丹波山城の山中にこもり、茅(かや)で俺を結び、わらびを採って餓を充たしながら、気楽に古墳を一日中巡訪していた。そして、この山にたどりつき、高僧智威が、隠棲したいきさつを聞いたのである。そして、その跡を追慕し、小堂に夜を徹して観行に専心すること七日、その結願の座に、稲を荷って、三女三子をお供にした老翁が現れ、こう宣言したのである。
 「わたしは世に言う稲荷明神である。ここは昔、高僧の智威と契を交わした地であり、わたしの本拠地である。師の戒律復興を助け、興福徳を授けてさしあげよう。」
 言い終わって、手招きをすると、ふいと老白狐が現れ、地面に伏した。
明神が背負っていた稲を慧雲律師に投げかけると、その姿が文殊菩薩に変わり、白狐に乗った。
三女三子もまた菩薩の一族に姿が変わり、小白狐に乗ってこの山を飛びかい、去ろうとはしなかった。
 律師が座を立ち、指をパチンと鳴らすと、その姿はかき消えて無くなった。
 慧雲律師はこの事を胸の奥深くにしまい込み、誰にも語ろうとはしなかったが、世間の人は皆な禅坊の上に白狐が群をなして飛びまわっていたとか、光明がさんぜんと輝いていたとか言いながら、争ってお詣りにきた。
慧雲律師は明忍律師と友尊律師の二友に遭えたので、槙尾の僧坊を興してその住職となった。慶長年中(1596〜1615)に、この因縁によって弟子の長円律師を伴いこの旧跡に結界し、改めて法寿山 正法寺と名づけ、遠く高僧智威の先例に習って弘法大師と伝教大師の教えを奉じ、真言密教に加え、天台の教えを兼ねた道場としたのである。




住職の秘義
  とは言うものの、当正法寺はもとより清寂を尊び、修禅三昧の境を期し、いわゆる俗世間から離れた寺院であることを本願としている。これに加えて、正法はうすっぺらな信仰が広がることをいましめ、仏はまた人の心を惑わすような不思議を語ることを制しているのであるから、春日稲荷がわが国の稲荷の根元であり、ありがたいご利益にあやかれるということをやたらに宣伝するのは、かえって罪つくりにつながりかねない。ただ、住職の雑義として、互いに正しく受けついで、胸の奥に記するにとどめるべきである。



稲荷明神の曼荼羅

 わたしは元禄八年(1695)乙亥、春三月に、槙尾の山からの依頼を受けてここ正法寺の住職となった。
そしてその日に、この秘旨(ひし)を伝えうけた。先徳がなされた通りに、正法にのっとり、厳しく戒律を守り、襟を正していくものである。
  いまは中興から百余年を経過し、伽藍はいたみが激しくなっている。試みに、寺伝にもとづいて仏前に祈願し請願して為ると、稲荷明神の不思議の験(しるし)があった。恭しくも江戸の将軍家桂昌院の太皇より尊信をいただき、今年本堂の大修復をおこなうことができたのである。まことに稲荷神の本拠地にして、高僧智威と契りを交わした願心の明らかな証である。
 当本尊の頂にある板額の形をした棟木に、古い筐(はこ)があったので、すぐに開いて見ると、そこに春日稲荷明神の曼荼羅が入っていた。歓喜して二十一日間献供し、供養をさせていただいた。まことにこれは、古くから伝わる通りの、いにしえの高僧が感得された絵図そのままであった。
わたしもまた、先例に習って筐の底にしまい込んだ。後の世にこれを開いて見る者は、供養祈念を本願とし、また縁起始終を教えるしるしとしてまちがいのない扱いをしていただきたい。すなわち、いいつたえが絶えることを憂え、明神像に添えて謹んで申し上げる次第である。この草稿の通りに精進し、疑うことなく努めるようしっかりと述べておく。
 
元禄八年 乙亥 師走二十五日菩薩僧侶告ぐ
            正法律寺幻住   慈雲謹誌



現代語訳「春日稲荷縁起」の発行にあたって

 明治維新期の国策によって無理矢理引き離されるまでは、古来から寺院域内には明神等の神道の祠(ほこら)が祀られているのが、ごく一般的な形態であった。
 当山不動堂の西北側に昭和五十九年再建の春日稲荷明神桐がある。ひっそりとたたずんではいるが、歴史的にはきわめて古く、また由緒に富む明神祠である。
 今から三百余年の昔、当時の正法寺住職・慈雲師が著した 「春日稲荷縁起」は、この稲荷明神祠にまつわるいわれをしるすと共に、後の正法寺の縁起書でもあり、また終章は後世に寺を預る者への忠告を遺すかたちで結ばれている。
 もとより、信仰上の奇瑞譚伝承(きずいたんでんしょう)と史実とに乖離(かいり)が存するとしても、往昔の先徳の真撃な修養の息吹が文脈から伝わってくるようであり、また当山の歴史、寺伝を探るうえで貴重な資料ともなっている。
 このほど出来るだけ分り易いかたちで檀信徒の供覧に資するため、若干の解説を加えつつ、あえて縁起の現代語訳を試み、原文、読み下し文と共に冊子にまとめた次第である。一千二百有余年に亘る春日稲荷・正法寺の歴史の概要を知るうえでの一助にして頂ければ幸甚である。

平成十三辛巳年   末資弘哉謹誌(現・正法寺住職 吉川弘哉 著)

●この誌の本意をお汲み取りいただき、正法寺住職の許可なしに、このまま複写・転用することをご遠慮下さい。

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